沿革
永仁5年(1297)日蓮聖人の法孫 摩訶一阿闍梨(まかいちあじゃり) 日印上人(1271-1328)の御開山と伝えらる。
この年に法華宗総本山本成寺の母胎「青蓮華寺」(現在「青蓮華院」)が開創される。
越後布教の途次、当地にて困窮する民を目の当たりにした日印聖人は祈念を捧げたところ、白牛蹲踞の地より甘露の水涌き出で、蓮華生す(蓮華淵)。聖人はこの霊泉の効験による救いの地に化縁を結ばれ、鬼子母尊神を安置された。此処に当山の歴史は始まる、と伝えられる。
戦国天正期、地頭本庄氏の外護篤く、本庄繁長(当時猿沢城主)の寺領安堵状が残されている。
徳川江戸時代に入り宗教統制のための寺請制度(1664)諸宗寺院法度(1651)本末制度が敷かれ、今日の檀家関係を中心とする寺院の地盤が築かれる。
江戸期の檀徒には、中原の鈴木氏、中村(現北中)・板屋越・下相川の大瀧氏、蒲萄の岡田氏、桧原の羽田氏、村上塩町・久保田町の菅原氏・佐藤氏・鈴木氏が、過去帳より窺える。
また守護神として祀られる鬼子母神信仰は、地域全域よりの参拝を集め、庫裏には宿泊所も兼ね備え、交通の便悪しき時代にあっても地域住民の精神的支柱の一つとなっていた。
下の絵図は明治期の当山の様子。 冠木門、番神堂(開山堂)客殿など、堂塔伽藍が整い、その隆盛なるを窺える。
上から、蓮華淵と鬼子母神絵像。
下は、繁長安堵状(市指定文化財)
明治39年 類焼により本堂・番神堂等を消失するも、15年の歳月をかけて大正10年、村上市塩町臨済宗妙心寺派安泰寺の本堂を移築し本堂を復興する(27世代・世話人曽川三右衛門・勘次郎・下写真)。その本堂は江戸時代村上内藤藩の学問所でもあり、書院には、戊辰戦争時、藩の責任を負い幽閉され最期を迎える内藤藩家老・鳥居三十郎所縁の間がある。その奥書院の床の間黒柿材は当時のままに残されていると伝えられる。
昭和52年(29世代・建設委員長鈴木太一) 本堂庫裏の改修によって庫裏新築・本堂の土台基礎工事。
平成5年 位牌堂増築(29世代・総代鈴木長五郎)。
平成26年 老朽化著しい本堂を維持するため本堂屋根構えを大きく改修(30世代・総代大滝兼蔵)。
内部はそのままに残し旧建築の屋根の上に更に屋根をかけ、唐破風門は二重構造となっている。